形骸化は恐ろしい事態を招く
幼い子が虐待により亡くなるという痛ましいニュースが飛び込んできた。
こういうニュースを聞くと、やり場のない怒りに震える人も多いだろう。
亡くなったお子さんに対しては、虐待を疑う通報があったにもかかわらず、警察と情報共有されておらず、結果的に救うことができなかった。
市は、この件について「適切な判断をして対応してきた」という認識だそうだ。
あまりにも空しい・・・。
子供を救えなかった結果から見て「適切な判断をして対応してきた」と言えないだろう。
取り返しのつかない最悪の事態については、通常(たとえば、役所内で通用するような)の「適切な判断と対応」は十分でない。
もっと高度で踏み込んだ「判断と対応」が必要とされるのだ。
市役所は普遍的な「判断と対応」が存在するとでも考えているのだろうか?
刑事裁判では「疑わしきは罰せず(事実の存否が明確にならないときには被告人にとって有利に扱わなければならない)」という言葉がある。
しかし、児童虐待の現場で「疑わしきは罰せず」に捉われすぎると、救える命も救うことができないだろう。
むしろ「疑わしきは罰する」ぐらいの気持ちで判断し、対応する必要がある。
実際、ママ友たちは「このままではこの子は死んでしまう」という危機意識をもって市役所に相談に行かれたそうだ。
このママ友たちの方が、頭でっかちの市役所よりよっぽど適切な判断と対応をしている。
そろそろ、箱や形といった外側の仕組みを作っただけで一仕事終えたように考えるのはやめなければならない(この件でいえば児童相談所と警察の連携ななど)。
その仕組みが目的に対して十分機能しているか、むしろこちらの方を重視すべきだ。
そうでなければ、仕組みの中にある「検証」も言い訳に使われるだけだ。
こんな状態では、痛ましい結果はいつまでたってもなくならない。