効率性の追求自体が無駄になっていないか?
人材や設備の無駄を極力排除する。
このことについて異論のある人は多くはないだろう。
しかし、効率性を徹底的に追及し、完全に無駄を排除するのは無理だろう。
私たちは神ではないからだ。
実際、機械設備を最大操業度で常に運転させようなどと思う経営者はいないはずだ。
とは言え、機械についてはある程度無駄を排除することは可能だろう。
ところが、人について効率性を徹底的追及するのは難しい。
そもそも、何が無駄なのか明確にできないし、機械のように誰でも同じよう働くことができないからだ。
試しに自分の行動を分単位で記録してみるといい。
仕事にあまり関係ない行動が思った以上に多く、驚くかもしれない。
また、たとえば仕事について考える時間であったとしても、それが効果的な時間の使い方であったと断言できる人は少ないだろう。
人には車のハンドルのような「遊び」が必要だと思う。
「遊び」がないと、常に緊張を強いられ、簡単に壊れてしまうかもしれない。
生真面目で完璧主義の人の中には、「遊び」があること自体が許せない人もいるかもしれない。
しかし、この余裕があるからこそ、変化に柔軟に対応できるのとも言えるだろう。
だから、やっきになって効率性を追求しないほうがいいのかもしれない。
その徹底的な追及がむしろ無駄になっているかもしれないからだ。